博物学者、生態学者、民俗学者。戦前の日本で、在野でありながら世界に通用した学者である。
1880年、柔術で前歯を折り、20歳前後で上の前歯4本を金歯にしていたという。
1885年4月27日より数日間にわたり頭痛あり。
1886年1月17日にも数日間にわたり頭痛あり。
同年10月23日、頭痛からてんかん発作となった。
1889年4月27日、アメリカのアナーバーでてんかん発作を起こした。
これらの症状について、大阪大学に保存されている熊楠の脳のMRIによる検討では、彼は
側頭葉てんかんであったことが推測されている(
Murai T et al. Neurology 50;1373-1376:1998)。日記によると、彼は何かに集中している時は発作が起こらないことに気づき、それを理由に常に様々な対象の研究に没頭したものらしい。
1941年3月に親友で主治医の医師・喜多幅武三郎が死去した時には、既に
萎縮腎と診断されていた。
同年12月から病勢が急速に進行し、12月29日に死去。
12月30日、大阪帝大助教授・森上修造により自宅で脳を解剖される。脳の重量は1425gであった。