プロ野球選手。「炎のストッパー」と呼ばれファンを魅了した広島東洋カープの投手である。
社会人から1981年のドラフト1位で広島東洋カープに入団。1年目の1982年、先発投手として11勝6敗の成績を残し、球団初の新人王に輝いた。その後、中指の血行障害により靭帯を摘出する手術を受け、1986年に抑え投手として復活。カムバック賞を獲得すると共に、チーム5度目のリーグ制覇に大きく貢献した。1989年には最優秀救援投手となった。
しかし1990年12月から左足のだるさを訴え、翌1991年1月には頻繁に頭痛を訴えるようになった。4月になり開幕を迎え、14日に広島市民球場で行われた読売ジャイアンツ戦でリリーフとして8回に登板したが、制球が効かずたった9球でマウンドを降り敗戦投手となった。これが生涯最後の登板となった。
その翌日、近医でCTを撮影し、「脳に影がある」と言われ広島大学病院を紹介受診。4月17日に入院して精密検査を受けた結果、手術で触ることのできない右視床に脳腫瘍が認められた。4月25日、脳室腹腔シャントおよび生検手術を施行。術後四日目に頭蓋内血腫により再手術。生検の結果、悪性神経膠腫、Grade IVと判明した。6月24日、晃代夫人から本人に病名を告知した。放射線治療を行ったが効果が見られず、転院。11月6日、広島カープを退団。その後、一時は奇跡的な回復を見せ現役復帰も噂されたが、1992年秋頃を境に再び病状が悪化し、1993年7月20日、32歳で死去。