作家。岡山県出身。
東大英文科中退後、雑誌社に勤めながら作品を発表し、『原色の街』『谷間』『ある脱出』が芥川賞候補となった。
1953年、肺結核のため山野病院に入院。翌年、国立清瀬病院・島村喜久治医師の手で肺切除を受けたが、この時の輸血で当時未知のC型肝炎ウイルスに感染したと考えられる。
療養中に『驟雨』で第31回芥川賞を受賞。「第三の新人」と呼ばれた。『星と月は天の穴』が芸術選奨、『暗室』が谷崎潤一郎賞、『夕暮まで』が野間文芸賞を受賞。
若い時から気管支喘息とアトピー性皮膚炎に罹患していた。1947年に、喘息の治療目的で京大病院で両側の頚動脈球を切除したが、この手術は後に効果がないことがわかっている。
戦時中、彼は一度出征したが、喘息のため数日で帰されており、「百閒の喘息」(『目玉』中に収載)という随筆に詳しく書かれている。若い頃の激しい発作の状態を彼はこのように表現している。
「それは、突然やってくる。私の場合、強い睡気がまず最初にある。(中略)数時間重い眠りがつづくと、不意に呼吸困難の発作が起こってくる。
こうなると、もう歩くこともできない。(中略)その間は、横になることもできず、上半身を布団の上に起こして、文字どおりうずくまっているしかない。」(「喘息との奇妙な対話」)
女性にもてた彼は、喘息発作の最中にも女の子を口説き酒を飲んでいたという。発作が始まるとステロイドを点滴していたようで、点滴の直後は発作も治まり原稿も捗ったが、しばらくすると鬱になり怒りっぽくなったそうである。
1974年、抗アレルギー薬のレスタミンを中止したところ、一時的に発熱したというエピソードがある。また、医学的根拠に乏しいものも含め、数々の治療を試していた。
「体質改善療法として、胎盤埋め込み療法、減感作療法、自身の皮膚を切り取り、冷凍して再び貼りつける療法、毒のある血液を吸い取るという変な療法、これは背中の上部に丸い黒い膏薬のようなものを貼りつけ、毒血を集めて吸い取るというものであった。」(『「暗室」のなかで』)
「血管から血を採り、一昼夜冷蔵したその血を、筋肉に注射するという療法を受けた。
私が効いたとおもう療法は、金コロイドを注射する方法である。ゾルガナール療法といい、インシュリンを併用する。」(「喘息との奇妙な対話」)
もちろん、このゾルガナール療法も効果は証明されておらず、現在では行われない。
1980年代からアルコール性慢性肝炎と診断されていた。
1984年、右白内障を発症。同年12月16日に武蔵野日赤病院に入院し、12月18日に眼内レンズ移植術を受けた。
1986年頃から乾癬に罹患。
1987年12月13日、武蔵野日赤病院に入院。12月15日に左眼の眼内レンズ移植術を受けた。これらの両目の手術のことは、「目玉」という随筆に詳しく書かれている。
1990年3月26日、胃カメラで胃潰瘍を指摘された。内服治療のみで軽快。
1990年7月24日、
肝硬変の疑いで虎の門病院に入院。
9月3日に肝生検を受け、肝硬変ではなかったと告げられた。9月15日に退院。
その後も何度か入院を繰り返し、C型肝炎であることが明らかになった。病院でもらった薬(強力ミノファーゲンC)を近医で週3回打ってもらっていた。
1992年4月28日、虎の門病院に入院。5月25日、血管造影。6月17日、CT検査。この入院時に
肝細胞癌と診断されたらしい。本人へは「血管腫」と告げ、未告知のまま2年半にわたりPEITを受けた。6月30日、退院。
1992年11月26日、虎の門病院に入院。12月11日、退院。
1993年頃からアルブミンの点滴を受けるようになった。
1993年3月1日、虎の門病院に入院。3月19日、PEITを受けた。3月24日、退院。
1994年2月6日、虎の門病院に入院。3月15日、退院。
1994年5月9日、虎の門病院に7回目の入院。これが虎の門病院への最後の入院となった。5月17日、血管造影(おそらくPEIT)を受けたが効果は乏しく、また6月1日に検査担当医からあっさり告知されてしまい、「シビアなことおっしゃいますな」と言った。この時腹水から菌が出て、腹腔内に抗生剤の注射をされたという。
その後、6月7日、6月16日にPEITを受けたが効果は乏しかったらしく、7月13日、大塚英子に諦めの電話をかけた。
7月21日に聖路加国際病院に転院し、6日後の7月26日に70歳で死去。