忍者ブログ

闘病大全

著名人の闘病を通して、いろいろ病気について考えていきたいと思います。

森鷗外(1862~1922)

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

森鷗外(1862~1922)

 作家、医師。喫煙者。中肉中背で肥満したことはなく、平素節制につとめていたという。
 1881年春、19歳の時に結核で静養した。1884年よりドイツに留学した。1887年コッホに師事。1890年、妻・登志子と離婚し、その後10年以上再婚しなかったが、それらの理由として結核が推測されている。同年8月4日、コッホがツベルクリンを「結核治療薬」として発表し、これを入澤達吉とともに日本に伝えた。1898年、小倉に転勤。1899年、長男・於菟が結核を発病。叔父・篤次郎、軍医正・西郷吉義、東京帝大教授・青山胤道が診察した。
 1922年7月9日、萎縮腎、肺結核のために61歳で死去。「余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス」という遺言は有名で、遺言により一切の栄誉、称号を排して墓には「森林太郎墓」とのみ刻されている。
 於菟が後に語ったところによると、鷗外は生涯にわたって結核であることを隠匿していたという。主治医・額田晉が診察し、後に於菟に語ったところでは、相当の排菌患者であったらしい。
「鷗外さんはすべての医師に自分の身体も体液も見せなかった。ぼくにだけ許したので、その尿には相当に進んだ萎縮腎の徴候が歴然とあったが、それよりも驚いたのは喀痰で、顕微鏡で調べると結核菌が一ぱい、まるでその純培養を見るようであった。鷗外さんはそのとき、これで君に皆わかったと思うがこのことだけは人に言ってくれるな、子供もまだ小さいからと頼まれた。それで二つある病気の中で腎臓の方を主にして診断書を書いたので、真実を知ったのはぼくと賀古翁(注:賀古鶴所、鷗外の親友の耳鼻科医)、それに鷗外さんの妹婿小金井良精博士だけと思う。もっとも奥さんに平常のことをきいたとき、よほど前から痰を吐いた紙を集めて、鷗外さんが自分で庭の隅へ行って焼いていたと言われたから、奥さんは察していられたかも知れない。」(『父親としての森鷗外』森於菟)
 これを受けて於菟は、鷗外の死の二年後に継母から言われた言葉を述懐する。
……何事もあけすけにいう性質の母が、「パッパ(注:鷗外のこと)が萎縮腎で死んだなんてうそよ。ほんとは結核よ。あんたのお母さん(注:先妻・登志子)からうつったのよ」といったのを継母継子という悲しい関係からとかく素直には受け取らず、何かカチンときて黙殺してしまったことを思い出す。(『父親としての森鷗外』森於菟)
 結核の、それも排菌状態にありながら平然と生活していたことは、現代の医師であれば甚だ問題であるが、当時は結核患者に対する社会的差別が強く、特に娘たちの結婚を考えての行動だったようである。
 なお、萎縮腎とは現在でいう慢性腎不全のことである。鷗外の父・静男も萎縮腎であった。静男は結核ではなかったが、鷗外の場合は重症の結核患者であり、腎結核による慢性腎不全であった可能性もあろうかと思われる。

拍手[0回]

PR

コメント

プロフィール

HN:
Johannes
性別:
非公開

カテゴリー

P R