菊池寛は30歳台の頃から狭心症の発作を起こしていたという。
1948年3月6日、妻・包子が家出して胃腸を痛め2週間の療養で快復した菊池寛は、妻を呼び寄せるために自身の快気祝いを開催した。そのパーティの最中、自宅の2階に上がった時に倒れ、息子の英樹の名を二度読んだ後に心肺停止となった。出席していた医師らが心臓マッサージなどの処置を行い、一旦は意識を取り戻して妻の肩に手を回し「お母ちゃん、お母ちゃん」と言った。しかし、しばらく後に再び意識を失い、9時15分に死亡した。
新聞発表は死因は狭心症となっているが、心筋梗塞であろう。