著名人の闘病を通して、いろいろ病気について考えていきたいと思います。
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「鷗外さんはすべての医師に自分の身体も体液も見せなかった。ぼくにだけ許したので、その尿には相当に進んだ萎縮腎の徴候が歴然とあったが、それよりも驚いたのは喀痰で、顕微鏡で調べると結核菌が一ぱい、まるでその純培養を見るようであった。鷗外さんはそのとき、これで君に皆わかったと思うがこのことだけは人に言ってくれるな、子供もまだ小さいからと頼まれた。それで二つある病気の中で腎臓の方を主にして診断書を書いたので、真実を知ったのはぼくと賀古翁(注:賀古鶴所、鷗外の親友の耳鼻科医)、それに鷗外さんの妹婿小金井良精博士だけと思う。もっとも奥さんに平常のことをきいたとき、よほど前から痰を吐いた紙を集めて、鷗外さんが自分で庭の隅へ行って焼いていたと言われたから、奥さんは察していられたかも知れない。」(『父親としての森鷗外』森於菟)これを受けて於菟は、鷗外の死の二年後に継母から言われた言葉を述懐する。
……何事もあけすけにいう性質の母が、「パッパ(注:鷗外のこと)が萎縮腎で死んだなんてうそよ。ほんとは結核よ。あんたのお母さん(注:先妻・登志子)からうつったのよ」といったのを継母継子という悲しい関係からとかく素直には受け取らず、何かカチンときて黙殺してしまったことを思い出す。(『父親としての森鷗外』森於菟)結核の、それも排菌状態にありながら平然と生活していたことは、現代の医師であれば甚だ問題であるが、当時は結核患者に対する社会的差別が強く、特に娘たちの結婚を考えての行動だったようである。