ジャーナリスト。
右肩甲骨の痛みを自覚し、近医を受診。神経痛と言われたが釈然とせず、他院を受診するがそこでも神経痛と言われた。約半年後、血痰あり、レントゲンで結核と診断され国立療養所東京病院を受診。検査の結果、結核ではなく肺癌(低分化扁平上皮癌、Stage IV)と判明し、1974年12月16日に国立がんセンター中央病院に入院した。抗癌剤の坐薬の投与を受け、さらに外科に転科して、1月24日・2月24日の2回、気管支動脈内注入療法(BAI)を治療を受けた(注:現在では肺癌に対する治療としては一般的ではない)。2月3日より放射線治療を開始。
病名は当初は妻だけに告知されたが、次第に本人にも無理に隠されることはなくなった。2月13日にPSKという抗癌剤治療を受け、その時に癌であることを確信したようである。自分の手指が紫色になり、先が膨れ上がっていたと記しているが、これは呼吸機能が不十分な場合に見られるチアノーゼ・ばち指という状態を指したものと考えられる。3月11日にリンパ節摘出術を受け、3月26日に退院。 診断から5ヵ月後の1975年5月19日朝、トイレで2回倒れた。22日、がんセンターが満床のため古川橋病院に入院。同日、義弟にみとられながら38歳で死去。直接の死因は肺癌の心膜転移による心タンポナーデであった。
彼はジャーナリストとして、初日から闘病ノートを取り、自分の癌体験を『ガン病棟の九十九日』に書いた。癌告知がまだ一般的でなかった時代の、患者の心理的葛藤と孤独感、家族の苦しみが克明に描かれている。