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闘病大全

著名人の闘病を通して、いろいろ病気について考えていきたいと思います。

手塚治虫(1928~1989)

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手塚治虫(1928~1989)

 漫画家、医師。戦後日本における最も重要な漫画家の一人であり、日本のストーリー漫画およびテレビアニメーションの先駆けでもある。
 幼少時には体が小さく病弱であったが、青年期以後は特に大病を患うこともなく、驚異的な仕事量をこなしていった。
 1984年頃から体調不良を訴えるようになった。当時の本人の日記には次のように記されている。

(1984年)7月23日 近頃妙に右のみぞおちの下がしくしくと痛み、ぐあいがわるくだるい。
(中略)
8月15日 先日から右のみぞおちの痛みがますますはげしくなり、動画の仕事にもさしつかえるようになった。重曹を買ってきて貰いしきりに呑む。なんとか痛みはやわらいだが、だるくてしかたがない。
8月28日 腹痛やまず。どうも心配になってきた。精密検査をうけねばなるまい。
8月30日 背中と右横腹がしめつける様に痛み、ついに背中にコウヤクをはってもらう。
 これは後に十二指腸潰瘍および胆石と診断され、1ヶ月入院し内科的治療を行って症状は消失した。その後、1987年に胆石と胃の検査を受け、いずれも異常が見られなかったため1年間放置した。
 1988年から胃もたれと吐き気、腹痛を訴えるようになった。近医では十二指腸潰瘍と診断されたが、手塚はさらに半蔵門病院で検査を受け、本人には難治性胃潰瘍で手術が必要と説明された。しかし、実は胃癌であり、悦子夫人には3月17日の手術直前に告知された。三浦健医師により胃切除術が施行され、見える限りの癌は切除された。癌は2.5×3.5センチの大きさで、腹膜播種があったためStage IVであった。
 11月8日、北京の旅行中に体調が悪化し、帰国すると半蔵門病院に直行した。肝転移と胃の通過障害をきたしており、12月5日に胃空腸バイパス術を施行された。このような状態にあっても、病室にアシスタントを呼んだり病院からこっそり抜け出して仕事を続けていた。
 1989年1月15日から次第に意識が混濁し始めた。2月9日、60歳で死去。最期の言葉は「仕事をする。仕事をさせてくれ」であったという。



 本人は最期まで癌の告知を受けなかったが、最後の日記はこのような形で終わっている。

1989年1月15日 今日すばらしいアイデアを思いついた! トイレのピエタというのはどうだろう。癌の宣告を受けた患者が、何一つやれないままに死んで行くのはばかげていると、入院室のトイレに天上画を描き出すのだ。
 この最期の日記は、病床の彼の心中を見事に表したものと言えよう。手塚は戦時中、おおっぴらに漫画を描けないので、勤労奉仕先の工場のトイレに自分の漫画を貼っていた。今、「癌」で入院していて自由に漫画が描けないので、昔のようにトイレに描いたらどうだろうというのである。
 医学の教育を受け、短期間ながら外科医として癌患者の診療にも携わったであろう手塚は、自分が癌であることにも感づいていたに違いない。しかしその一方で、手塚は周囲に本当の病名を告げるよう求めたという。病院を抜け出して知人の病院に意見を聞きに行くという、現在でいうセカンド・オピニオンを求めるようなことまでした。しかし家族や医師をはじめ、周囲の人々は手塚の性格を考慮し、決して病名を告げなかった。結局、手塚本人は胃癌を強く疑っていたが胃潰瘍だと信じたいという葛藤に苛まれていたのかもしれない。

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